もう28年前のことになります。師匠談志に入門して1年経ったある日のことでした。
練馬にある師匠の自宅で、ともに前座修行をしていた兄弟子が突然「俺、落語家やめるわ」と言い出しました。
その場にいたまだ20代だった私と他の前座3人は唖然(あぜん)。確かに、その兄弟子の前座修行は身が入っていないように見えましたが、喋(しゃべ)りにセンスがあったので、いま辞めるのはもったいないんじゃないかという声も出ました。
しかし、兄弟子の決心は固く、これから談志にそのことを告げる覚悟だと言います。しかも「師匠談志のところを辞めて、たけし師匠のところに行こうと思ってるんだ」
たけしとはもちろんビートたけし、北野武さんのことです。
これも師匠に話すと言うので、ただ辞めるでいいんじゃないか、どうしてわざわざよそへ行きたいと告げねばならぬのか、と全員で止めたが「だって、その方が行きやすいから」というなんだかよくわからない答え。
兄弟子が師匠談志のいる書斎へ向う。
私たち前座4人は、漫画のヒトコマのように隣の部屋のドアの隙間(すきま)から顔を並べてドキドキしながら事態を見守った。
机に向かって原稿を書く師匠。
机越しに正座した兄弟子。
「師匠、辞めようと思うのですが」
「辞めたいのか。辞めてどうするんだ?」
「はい、たけし師匠のところに行こうと思います」
「たけしの弟子になりたいってのか?」
書斎の空気が凍り付いた。
師匠の椅子の後ろには大きな書棚が並び、本と一緒に並ぶ高級な洋酒。
後ろ手にその中の1本、オールドパーの瓶の首根っこを右手で握ってさかさまに持ったのを目撃したときは、あ、兄弟子は殴られるんだ! と覚悟した。
と、師匠は机の上にあった名刺をセロテープでボトルの正面に貼り付けて言った。
「これを持ってたけしのところに行きな。これをもらったらお前の申し出を断れないだろうから」
事態をうかがっていた私ら前座全員は崩れ落ちた。
その後、言われた通り洋酒を持ってたけし師匠に入門した兄弟子は大活躍。ただしもらった芸名がフンコロガシ。が、談志の許しを得て芸名だけは元のダンカンを名乗った。